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2010.03.15

謝罪は勝縁である??

顕正新聞3月1日号2頁の文
――以下全文――
世間でも「信用」や「信頼」を得るのは、己の間違いを謝罪した時である。
親鸞聖人でさえ「われあやまてり、われあやまてり」と仰っている。過ちのない者などあろうはずがない。決して軽蔑されないのだ。
破門された信楽房は謝罪を知らぬ典型人間だった。常にああだこうだと聖人の教えにも素直な姿勢はなかった。
率直に非を認めた謝罪は、信仰の前進ともなり人の信用が深まる勝縁なのである。
――以上――

勝手に人の文章を替えた上、覆面者などと罵っておきながら一言の謝りも無いくせによくも堂々と新聞に書けたものです。
謝る事だらけの人達に何から謝ってもらいましょうか。
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Posted at 14:29 | 未分類 | COM(1) | TB(0) |
2010.01.25

どうせ分かってもらえないと思って出さなかった手紙

弘宣部長殿

8月1日付け新聞にある、私の手紙に対するご返事と思われる論説を読ませて頂き、かなり誤解をなさっておられる様に感じましたので、再び筆を取りました。
私の文章を故意に変えられたり、非難と公言されていることに憤りを覚えますが、事は後生の一大事、冷静に沙汰しなければなりません。
かなり誤解されて、的外れな反論をなさっていますので、論点を一つに絞ります。
私は高森先生以外の御説法を聞き求めた事はありません。親鸞会の会員一筋、学徒のはしくれです。
聖人のみ教えに善の勧めが有るのは、今更論ずる事ではなく周知の事実です。私も善をするなとか、悪に励めとは言いません。
廃悪修善を教えられたのが仏教です。如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。
無学な私でも知っています。

ここからが本題です。情けない事に教学力がないため、あくまでも信仰です。
18願の世界に救われたいと、真剣に聞き求めて行けば、救われない事に苦しみ悩み、やがては修善や念仏にすがらずにおれなくなって来ます。
そうなれば、役に立たないからするなといくら言われても、修善に励まずにおれません、念仏唱えずにおれないのです。
せずにおられなくなるのですから、勧めはいりません。するなと言われてもせざるを得ないのです。
18願に向かって苦しんでいないのに、方便だから19願に勧められた修善を頑張りましょうでは、どれだけ経っても18願には入れません。方便の大切さを聞き誤っての求道は空回りとなりませんか?
弘宣部長は、救われない自分に苦しまれた事はありませんか?
ただがわからんと、もがき苦しんだ体験はないのですか?
Posted at 20:11 | 未分類 | COM(1) | TB(0) |
2010.01.20

頓珍漢な教学

親鸞会『顕正新聞』(平成20年8月1日号)論説の

「真剣に善をせよ」と勧めたすぐ後に、「真剣に善をやってもだめだからやるな」と説いて、それで説法になると思っているのだろうか。
 そんな頓珍漢な布教を続けてきたから、結局、誰も修善に向かわず、真宗の現在の惨状があるのではないか。

によると

教学聖典(2)
問(27)
 三業の善を勧められた善導大師のお言葉を書け。親鸞聖人は、それをどのように読み変えられたかも示せ。

答(27)
 不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮

○外に賢善精進の相を現じて、
 内に虚仮を懐くことを得ざれ。
             (善導大師)

○外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、
 内に虚仮を懐けばなり。
             (親鸞聖人)

は、頓珍漢な教学ということになると思います。

Posted at 18:25 | 未分類 | COM(1) | TB(0) |
2010.01.19

変わり果てたる我が手紙かな ダイジェスト版

ビフォー

弘宣部長殿
 7月1日付け顕正新聞につきまして、新聞の核とも言える論説にとても信じ難い内容でまとめられていると感じました。
 最初は躊躇しておりましたが、先日の御説法をお聞きし、決意を持って筆を取りました。
 新聞の全責任を持たれる会長先生に失礼な事ゆえ、間違っておればどんな処分を受けても構いません。
 親鸞聖人が善導大師を絶賛なされた事は御説法の通りですが、あの一文は聖人が大師の真意を顕かになされるために読み方を変えられておられます。
 それにも関わらず、大師のそのままの下し文のみを載せて、聖人がそれを絶賛され、それ一つで聖人が大師を絶賛されているように読み取れる文章は、まるで聖人のみ心をないがしろにして、教えを曲げて受け取ってしまう恐れを懐かずに居れません。
 更に大師の真意迄誤解される気がします。
 そのまま読むと、なんの疑いもなく心から善に励めば良いと受け取る人が多く現れるのではないでしょうか。
 善を勧められるのは当然ですが、目的がずれてしまえば大変な事になります。
 かって、高額の財施に頑張ったつもりが、ままならなくなり、離れていった人達を何人も見てきました。
 今、また尊い財施のご縁を頂いていますが、誤った気持ちでいくら善を励んでも往生の足しにはならんと教えられた聖人に顔向けが出来ない結果には成らないでしょうか。
 以上、心よりお慕い申し上げる会長先生に対しあるまじき言動であることは断腸の思いでは在りますが、だからこそ心に閉まっておくわけにはいきません。
 今は名を伏せて投函させて頂きますが、この思い受け止めて下さり、然るべき後に名乗り出て、ご処分承ります。


アフター


◆親鸞聖人の善導の絶賛は「その通りだが」、「善導の真意」を明らかにする為に、「読み替えて」いられる。

◆善導の教えだけを載せて、「読み替えていられる聖人の心を」ないがしろにしては、「親鸞聖人の教えを曲げて受け取る」おそれがある。

◆また「善導大師の真意」まで誤解させることになる。

◆あのままだと「こころから善に励めばよい」と受け取る人が多く現れるのではないか。

◆「善を勧めるのは当然のこと」だが、「目的」がずれてしまえば大変なことになる。

◆「誤った気持ち」で、いくら善を励んでも、「往生の足しにはならぬ」と「教えられた聖人に」顔向けができない結果になる。


Posted at 16:58 | 未分類 | COM(0) | TB(0) |
2010.01.10

変わり果てたる我が手紙かな

あれからどれくらいたったのだろう
沈む夕陽をいくつ数えたろう

私が一昨年、親鸞会の『顕正新聞』(平成20年7月1日号)を読んでからのことです。
論説を読んだ私は、顕正新聞編集の責任者であった弘宣部長に手紙を書きました。
(メールではありません)
この論説は今は、浄土真宗親鸞会の公式ホームページ「現代に生きる仏説」に
「善の勧めを、なぜ絶賛されたか」として、公開されています。

これが私の書いた手紙です。

弘宣部長殿
7月1日付け顕正新聞につきまして、新聞の核とも言える論説にとても信じ難い内容でまとめられていると感じました。
最初は躊躇しておりましたが、先日の御説法をお聞きし、決意を持って筆を取りました。
新聞の全責任を持たれる会長先生に失礼な事ゆえ、間違っておればどんな処分を受けても構いません。
親鸞聖人が善導大師を絶賛なされた事は御説法の通りですが、あの一文は聖人が大師の真意を顕かになされるために読み方を変えられておられます。
それにも関わらず、大師のそのままの下し文のみを載せて、聖人がそれを絶賛され、それ一つで聖人が大師を絶賛されているように読み取れる文章は、まるで聖人のみ心をないがしろにして、教えを曲げて受け取ってしまう恐れを懐かずに居れません。
更に大師の真意迄誤解される気がします。
そのまま読むと、なんの疑いもなく心から善に励めば良いと受け取る人が多く現れるのではないでしょうか。
善を勧められるのは当然ですが、目的がずれてしまえば大変な事になります。
かって、高額の財施に頑張ったつもりが、ままならなくなり、離れていった人達を何人も見てきました。
今、また尊い財施のご縁を頂いていますが、誤った気持ちでいくら善を励んでも往生の足しにはならんと教えられた聖人に顔向けが出来ない結果には成らないでしょうか。
以上、心よりお慕い申し上げる会長先生に対しあるまじき言動であることは断腸の思いでは在りますが、だからこそ心に閉まっておくわけにはいきません。
今は名を伏せて投函させて頂きますが、この思い受け止めて下さり、然るべき後に名乗り出て、ご処分承ります。


ところが、親鸞会『顕正新聞』(平成20年8月1日号)論説は次のようなものでした。
--------------------------
論説(7月1日号)への非難に答える

◆親鸞聖人の善導の絶賛は「その通りだが」、「善導の真意」を明らかにする為に、「読み替えて」いられる。
◆善導の教えだけを載せて、「読み替えていられる聖人の心を」ないがしろにしては、「親鸞聖人の教えを曲げて受け取る」おそれがある。
◆また「善導大師の真意」まで誤解させることになる。
◆あのままだと「こころから善に励めばよい」と受け取る人が多く現れるのではないか。
◆「善を勧めるのは当然のこと」だが、「目的」がずれてしまえば大変なことになる。
◆「誤った気持ち」で、いくら善を励んでも、「往生の足しにはならぬ」と「教えられた聖人に」顔向けができない結果になる。


観念の遊戯では通れぬ

『顕正新聞』(七月一日号)の論説「善の勧めを、なぜ絶賛されたか」を「信じ難い内容」とする匿名の封書が届いた。内容は左記(上記)のようなものである。
 善導大師の教えとは、
「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
のお言葉のことである。
 誰が読んでも明らかに、「外」(言動)も、「内」(心)も修善を厳しく勧められ、内と外との不一致を戒められたものだ。
「これが早く弥陀に救いを求める説かれた教えだからこそ、親鸞聖人は『善導独明仏正意』『大心海化現の善導』と絶賛されている」と、論説した。
 何が信じ難い内容なのか。
 善導大師の教えだけでは間違いだとでもいうのならば、もし親鸞聖人が現れなかったら、善導大師は悪知識であったということにもなるというのであろうか。
 そんな善導を聖人が、「独明仏正意」とおっしゃるはずがなかろう。善導大師の真意は、そのまま親鸞聖人の真意なのだ。事実、聖人も善導と同じく善を勧められていることは、『末灯鈔』でも明らかである。

聖人を嘆かせる聞き誤り

「われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも言いなどすることはあるべくも候わず」(十八通)

「これで自分は、極楽へ往けるようになったのだから」と広言し、勝手気ままに、してはならないことをしたり、思うてはならぬことを思ったり、言ってはならぬことを言ったりするなど、決してあってはならないことだ。

「煩悩具足の身なればとて、心にまかせて、身にもすまじきことをも許し、口にも言うまじきことをも許し、心にも思うまじきことをも許して、いかにも心の儘にてあるべしと申しあうて候らんこそ、返す返す不便におぼえ候え。酔もさめぬ先になお酒を勧め、毒も消えやらぬにいよいよ毒を勧めんがごとし。『薬あり、毒を好め』と候らんことは、あるべくも候わずとこそ覚え候。(二十一通)

 どうせ煩悩の塊だからと開き直って、思うにまかせて、やってはならぬ振る舞いをし、言ってはならぬことを言い、思ってはならぬことを思っても、これは仕方のないこと、慎む必要はないのだ、と話し合っているようだが、はなはだ情けない限りである。
 泥酔者に、なお酒を勧め、毒で苦しんでいる者に「薬がある、どんどん酒を飲め」という愚者が、どこにあろうか。

 真意の理解される困難さと、聖人の悲憤の涙が伝わってくるではないか。
 だが覆面者は、「善導大師の教えを、何の疑いもなく、心から善に励めばよいと受け取るのは、間違いだ」と言いたげだが、今まで何をどう聞いてきたのだろう。
 確かに善導大師の文章を、
「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と『教行信証』に読み替えられている。これを善の勧めを否定されたお言葉と思っているのだろう。とんでもない間違いである。
 それどころか、善導の教えのように進まれ、弥陀に救い摂られた聖人の懺悔である。「心はうそ偽りばかり、賢そうな善人らしい精進も他人だましの見せ掛けの親鸞は、偉そうにする値などない身ではないか」と、悲嘆なさっていられる言葉なのだ。

 できるか、できないか。真剣にやってもみない者には、どちらもハッキリしない。真剣に取り組んだ者だけができる、できないがハッキリする。
 言葉だけ親鸞聖人の真似をして、「我々善が努まるかい」「どうせやっても雑毒の善ではないか」「悪人正機が弥陀の本願」と懺悔も歓喜もなく開き直っているのとは、まるっきち違うのだ。

だからこそ信心の沙汰を

「善の勧めは当然」と言いながら、「目的がずれては大変」とも嘯く。この覆面者、ちゃんと正しい目的を知っているらしいが、重ねて明らかにしておこう。平生業成が弥陀の救いの外、断じてあってはならないし、ないのだ。
 死ぬまで完成のない諸行往生が目的なら、「早く弥陀の救いを求める」はずがない。「誤った気持ち」では「聖人に顔向けできぬ」と高言するが、では「正しい気持ち」とは、どんなことを言うのだろうか。
「真剣に善をせよ」と勧めたすぐ後に、「真剣に善をやってもだめだからやるな」と説いて、それで説法になると思っているのだろうか。
 そんな頓珍漢な布教を続けてきたから、結局、誰も修善に向かわず、真宗の現在の惨状があるのではないか。

「釈迦弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり」
       (高僧和讃)


「十方衆生を絶対の幸福に救おう」という、弥陀の目的である十八願に導くために、方便(手段)に建てられたのが弥陀の十九願である。
「修諸功徳の願」と言われ、あらゆる善を勧められた十九願の意を、釈迦が解説されたのが『観無量寿経』。広く言えば、一切経すべてが善の勧めである。
『観経』の教えを開かれたのが、善導大師の『観無量寿経』であり、先の教導は、この中の極めて大事な一文なのだ。
 弥陀と釈迦の、善巧方便なくして、どうして無上の信心が我々に発起しようか。
 それを善導大師は「要門」と言われ、必要かつ重要であり通らなければ、真実の十八願へは入れないからである。
 観念の遊戯では、決して通れない。方便だからと馬鹿にして善に向かわねば求道は空回りするばかりである。
 こういう聞き誤りがまだまだあるから、同朋の里や法輪閣で大いに、信心の沙汰をしなければならない。
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私はいつの間にか覆面者の悪人になっていました・・・

それにしても、私の手紙がこうも変えられてしまうとは・・・

そしてあれから、1年半以上の月日が経ちました・・・



Posted at 19:38 | 未分類 | COM(5) | TB(0) |
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